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第15回の定演のプログラムの真中、ホ止めのしてあるページに、
「シュワルベンコール15年のあゆみ」が掲載されました。
第1回から14回までの演奏会の曲目の他、それらの
プログラムの表紙が手書きにて描かれております。
これに書かれた説明を下記に紹介したいと思います。
改行も原文に合わせました。
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[第1回の頃]
(注:[ ]内はプログラムにはありません。)
戦後,うた声運動が盛んになり,工大
もその影響を受けて,合唱団がぞくぞく
と生まれ,1950年に5つの合唱団が発表
会を開きました。シュワルベンの前身で
ある学友会音楽部は約30名でした。しか
しその後,それらの合唱団も次第に消え
てゆき,音楽部も管弦楽団に籍を置いて
いた者が,細々と四重唱をやっていた程
度だったようです。その生残りの連中が,
混声合唱をやれば人が集まるだろうとい
うことで,混声を始めたところ,案の定
男女とも集まりました。これがシュワル
ベンの母体となりました。その頃は管弦
楽団と一緒にやっていましたが,1959年
に独立し,混声合唱団シュワルベンコー
ルとして第1回の定期演奏会を開きまし
た。指揮は伊東嘉樹氏でした。
[第3回の頃]
1961年より常任指揮者に北村協一氏をむかえ,
2人の常任指揮者をもつという恵まれた合唱団と
なりました。人数は男70名,女40名という大世帯
でした。その後,男声合唱団と混声合唱団に分か
れ,第4回定演から完全に男声合唱団となり,指
揮者に北村協一氏,ヴォイストレーナーに中村博
之氏というコンビで出発しました。
[第5回の頃]
当時の北村協一先生は,学生とも余
り年が離れていなかったことと,今ほ
どお忙しくなかった為,団員から「協
ちゃん」と呼ばれ親しまれ,合宿では一緒に遊んだりもした
そうです。中村先生=ヒロタンは昔も今も全然変わっていな
いそうです。ただし昔はもっとスマートだったそうです。
三宮注)プログラムでは左上の余白には第5回定演の
プログラムの挿絵があります。
[第9回の頃]
この頃は,四工大の他に,
東都五工大,国公立などに加
盟し,また賛助出演なども多
く,現在よりも倍以上のステ
ージをこなしていたそうです。
[第11回の頃]
1969年頃に東工大の大学紛争,大学のロッ
クアウトなどがあり,シュワルベンもその影
響を受け,69年の四工大東京演奏会は中止に
なり,部員も減ったそうです。
[そのページの最後]
北村協一先生は,年ごとにお忙し
くなられ,シュワルベンの練習に
もなかなかいらっしゃれなくなり
ました。そこで12回定演より顧問
指揮者となられ,新たに常任指揮
者として,柳川直則氏をむかえま
した。こうしてシュワルベンも2
人の指揮者のもとで歌えるという
恵まれた時代をむかえることとな
りました。
そして今年,北村協一氏が外遊の
ため,柳川直則氏だけによる演
奏会をむかえることとなりました。
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